小野殿が来てから食が少しずつ細くなくなってきた。最初はもう一口とかそれくらいしか食べなかったけど次の日二口食べて、その次三口で…、つぎが四口かと思ったら食べたくなくなって駄々っ子みたいになって、また振り出しに戻って。何回かこれ繰り返したら困るどころか小野殿は「またですか…」って苦笑してた。それ見るたびに心臓が嫌なくらい跳ねて、苦しくなったりなんだか嬉しかったり、なんて言うんだろうこういう気持ち。小野殿に聞くのは何か間違ってる気がするし太子は来ないし女人は嫌いだし親兄弟は問題外。結局一人で考える羽目になるけれどそれはそれで好き。一人で部屋にいる(けれど一人なのは気分だけで簾の向こうには誰か居るしいつか女人も入ってくる。から、少しの時間だけどね)ときはそれが一番の時間つぶしになるから。あれじゃないこれじゃないとか一生懸命自分で納得のいく答えを出すのが好き。寝るのも嫌になるときも何回か経験した何を考えていたか分からなかったけれどあの時はそれが大好きだった。そういえばいい大人になってから「きらいなこと」はふえたけど「すきなこと」とか「すきなもの」が全く思いつかなくなった。なんだろうこれは。むかしむかし、(いやそんなに昔じゃないかも)太子が粥とかを運んできてたころにきいたら「は良くも悪くも欲がないね。」って言われた。聖人、っていうのかな。よく分からないんだいまでも。欲がない、っていうのは、やっぱり人間じゃないのかな。生きていることに意義がない。の、かもしれない。自分で嘲笑うことも増えた…。た、太子のせいだコノヤロー!!「様、お食事持ってまいりました」あ、もうそんな時間なんだ。馬鹿馬鹿しい自問自答してて時間の感覚すらもなくなったみたいだ。すごい、不思議だ。いつもどおり「どうぞ」と促して小野殿が簾を潜る。なんだかいつもより表情が暗いような気がする。私がよほどおかしい顔をしていたのか目があったら小野殿は大きく目を開いたけれど今までの顔を隠すように微笑んだ。いつもより凄く柔らかくて私が吃驚した。「昨日は二口でしたからね。もっと食べて下さいよ。」と粥を掬った匙を差し出してくれる。いつもならゆっくり話をしてからこうやって食べさせようとするのになんだか今日は小野殿がおかしい。食べたらきっとまたいつもみたいに笑ってくれる、ぎこちないけどなにも飾ってない笑顔をしてくれると、おもって、その一心で私は差し出された粥を食べた。一口、また一口。味なんかどうでもいい、笑ってくれるなら食べるよ。いつの間にか器に入っていた粥が半分くらい無くなっていて小野殿は吃驚していた。でも、やっぱり笑ってくれない。……私は発する言葉を探すために俯いた。沈黙が、苦しい。何かしら話に花が咲いていた分…「様」今の沈黙が痛いよ。「様…。」ガバッて音がするくらい顔を勢い良く上げたら小野殿が切なそうな、顔を、していた。のかもしれない。それはすぐに柔らかい笑顔に変わった。







「ご結婚、されるそうですね。おめでとう御座います」








…な、にそれ。新手の冗談なのかそれとも本気なのか。それにしても誰かが婚約とか言う話なら、そうですかへぇー。で終わるところだけれども、主語がない。だれが、誰と、結婚するのか。其れが解らないと私だって答えようがない。「……誰がですか?」小野殿の目を見るのがなんだか怖かった。どんな言葉が返されるかが怖かった。だれが…友達なんかいないけれど、顔見知りの誰かが無理矢理嫁がされたりするのはなんだか後味が悪い。それは仕方がないことだと、ずっと前から割り切っているはずだけれど、此処にはやはり自由がないのかも知れない。私も所詮大臣蘇我馬子の手のひらの上で踊らされているだけなのだけれど。




「惚けないで下さいよ、様。様のご婚約の話は僕の実家の方まで届いております。」
「……冗談なら今すぐ撤回していただきたいのですが。」
「僕は冗談をいうような人間にみえますか?」




しんけんな め をしてた。婚約って何?結婚?私が?聞いたことない。いつか、いつか…とはおもっていたけど父上が私に何も言わずに此処まで話を進めることは無いと思っていたから。あぁそうか、いつのまにか、……父上は。「様ももうそんな歳ですしね、蘇我家としては有力な人との婚姻は欠かせないモノですし。出来れば早くしたいというのが本音だったと思われるのですが、様は蘇我家の末娘、馬子様が愛情を注いで育てたことはよく分かってますから遅くなったのも当然かも知れませんが。」微笑んだ、また、柔らかい笑顔で。言葉にどこかに皮肉が籠もっているけれど全てを表に出さないようにしているところが、この人は本当に抜け目がないと思う。それとも私が人の心を探りながら会話をしていることを知ってしまったのだろうか。それしかこの『場所』を手に入れることが出来なかった手段だったのだけれど。唯一無二の私の得意技、最低だね。ふ、と鼻で笑ってしまった。「それは、いつ頃から流れている噂なんですか?」目線が、ぎりぎりかみ合わない所に視点を置いて、聞いてしまう。これで、小野殿が私にどれだけ嘘をつきながら此処に通ってくれていたかが分かる。聞きたくなんてないけど、でもコレからは逃げ出すことなんてきっと出来ない。「…10日ほど前からです。」なにかばつの悪そうな顔をしている。10日前…、は、たしか小野殿が来てから、二日目で、一口だけ食べたあの日。あの日からずっと小野殿は私にこのことをいってくれなかった。なんでだろう、誰一人、私に伝えてはくれなかった。簾の前にいる舎人も、世話係だという女人も、一度も来てない父上、姉上、兄上。…小野殿。目の前と、頭の中と、体が、ぐるぐるまわって吐き気がしてきた。涙腺が緩んで目の前がブワッて一気に霞んだ。「相手は…、」小野殿が口を開いたけれどそんなのどうでも良かった。立ち上がって部屋から出ていく。舎人が私の肩を掴んで引き留めようとしたけれど屈んで避けて、一直線に父上の居る部屋、に走った。(会議室みたいな、謁見の間?みたいな、広い広い部屋にいつもいるのは知っているから。)すれ違う奴碑が、全員驚いて慌てて道をあけていた。前に立ちふさがった女人も「道を開けなさい!!」って一喝したら額を床につけて蹲った。父上の居る部屋、に着いたら父上は太子と一緒にお酒を飲んでいた。きっと倭国の将来や仏教の将来を二人で語っていたのだろう。でもいまはそんなこと聞きたくない、「父上!わたしの…私の婚姻とは、いったいどういうことですか!!」走ってきたから息が途切れて、肩も一緒に動かして呼吸をしないと辛い。止まっていた涙が少しずつ溢れてこようとしている。必死に唇をかみしめてそれを堪える……堪えてみせる。




「あぁそうだよ。まったく誰から聞いたんだ?舎人か?女人か?」
「…小野殿から、お聞きしました」
「そうか、彼か。相手は、聞いたかい?」
「……」
「聖徳太子だよ、お前の目の前にいる。」




太子と目があった。すこし向こうも悲しそうな顔をしている。お酒には強いらしいけど顔が赤くなっている。やけ酒でもしたのか祝杯でも挙げたのか。頭はこんなに冷静なのに言葉が紡げない、目からはやっぱり涙が溢れだしてしまって、きっと情けない顔をしているんだろう。父上はなにか感傷に浸りながら酒を啜っている。珍しく酒だけの席。食べる物は何も用意しない酒だけの席。いつもなら百済や高句麗から貢がれてきた珍しい器を使っているのに今日は素焼きの簡単なもの。父上にしては珍しい。珍しいことばかり。「別に構わないだろ、お前は太子と仲がいいんだから。」太子だって賛成してくれたんだから、と何処か遠くを見ながら誰に言うわけでもなく呟いた、それが腹立たしくて腹立たしくて…、なにか、そう糸が切れたみたいに張りつめていた何かが切れたみたいに楽になって、「父上は…、父上はいつも自分勝手だ!!」そう言って渡り廊下から裸足のまま飛び出た。何がどう自分勝手なのか分からない。いつかは、って覚悟はしてたはずなのに。何が私をこんなに感情的にするのか。「!!」って叫ぶ太子の声が何処か遠くで聞こえた気がしたけれどそんなことどうでも良かった。感情のコントロールが出来なくて、体が勝手に動いた。足を地面につけた途端、足が濡れた。朝露で草は濡れていて、それで冷たかったけれどそんなことも構っていられなかった。外を警備している男の人が、全力で追いかけてきて、怖かった。塀によじ登って外に降りた。私は、そのままめのまえの森に走って入った。何も考えられなかった。昔は優しかった父上が、いま私を苦しめている。大好きだった父上。結構な年齢なのに構わず肩にのせてくれたり、一緒に馬に乗せてくれた父上。いまは、もう怖いだけだ。何もかもが怖くて、怖くて怖くて逃げたいだけの一心だった。太子も、何で言ってくれなかったんだろう…。空には太陽が昇っていたはずなのに、周りは暗くて何も見えなかった。深い深い森で、木が光を遮っているんだ、くらい。夜よりもずっと暗い。足下も見えない。ここは、闇だ。声を出してもきっとこの闇に吸い込まれて消えて行くんだろう、から、いまだけは、情けなくてもみっともなくてもいい。大声で。何かを体から追い出したい一心で泣いた。誰も聞いてないみたいだし仮に此処から声が聞こえてもどうせこんな暗いところに足を踏み入れることはしないだろう。近くの木だと思う幹に寄りかかって座った。

、こんな汚いモノなんか生きる資格も何もない。私は目を瞑ってそう思いながら黄泉の国へ行く夢を見ようとした。夢を見ればきっとそれがいつの間にか現実になってくれるから。