薄暗い部屋、廊下を誰かが歩く音、外から聞こえる鳥の声…。あぁまた一日が始まってしまった。一日が始まると憂鬱だ。水を飲みたくない、粟も麦も米も口に含みたくない、魚も、野菜も同じだ。取り入れたくない。生きたくない。父上の馬子は私にいつも言う『食べなければ仕方がないだろ。』そう父上は私のことを政治の道具としてしか見ていないのだ。権力を持った家へ嫁がせるだけの道具でしかないのだ。それはそれで仕方のないことだとは思う、思うけれどわたしはそんな生き方をしたくない。嫌だ嫌だ、父上が、家系が、豪族が、皇族が、何もかも 








 大 嫌 い だ 。



















、私だよ。」




簾の前に聖徳太子の足が見える。今日は珍しくジャージじゃないのか…。それに誰かを引き連れている。誰だ、ろう。私に会うなら父上の許可が下りないと無理なはずだしそう簡単に許可も下りないはず…「どうぞ、太子。」取り合えずそう言うものは招き入れて実物を見た方が早い、考えなんていつまでも止まらないものだから。簾を右腕ではらりと持ち上げて正装の太子が入ってきた。本当に何年ぶりだろうかこの人の正装を見たのは。いつもこんな格好して静かに座ってるだけで仕事をしているように見えるというのに…。太子と一緒に入ってきた人は頭の冠が赤色だ。大礼か小礼の人だろうか。髪は少し色が抜けている、栗のような色。凛とした顔立ちで肌は健康的に白い。いい人だ。見たことがないと言うことは豪族…(しかも地方の方の)だろうか。とにかく初めて見る人だ、少しばかり警戒しても失礼にはあたらないと思う。「元気にしてた?」私の布団の横に座る、相変わらず暗い部屋で申し訳ないけれどいまいち外の光を入れる気にはならない。太子がいつものようにくつろいでいる横で冠が赤い人は礼儀を重んじるのか手を袖に入れて膝で立ち、手を組んでいた。「そうだ、。こいつ紹介しておくよ。」ほら妹子自己紹介しな、と太子がその人を小突いた。妹子と呼ばれたその人は一瞬眉をひそめたけれど社交辞令的な笑顔で私に言った。「初めてお目に掛かります、小野妹子と申します。」頭を深く一礼。私はそこまで自分が偉い地位にいるとは思えないので両の手を振って「そんな頭を上げて下さい小野殿…。私は貴方に敬われる者ではありません。」というと小野殿はふわっと微笑んで「そんなことは御座いません。今や皇族との深い関わりを持っている蘇我馬子様の娘様なのです。敬われて当然ですよ。」……そう私は蘇我の子だった。一気に何かがせり上がってきた。『蘇我の子』その単語だけで私は何かを肩に背負う、重い重い何かを背負う。食道を溶かすようなこの苦い味、何度も味わった、そうだ何度も。一気に顔が蒼白になった…もういやだ。私の中の誰かが呟いた気がした。



!?妹子、水を誰かから貰ってこい大至急!」
「え、あ、はい!!」
「それから布巾を貰ってこい」



バタバタと出ていってしまった。それでもなおせり上がってこようとする。気持ちが悪い、何もないのに吐いてしまいそうだ。唇を噛んで涙をこらえて布団を握って前屈みになって…何かから耐える、耐えなければならない。「、大丈夫落ち着いて。」背中をさすってくれる太子の大きな手。少しずつ落ち着いてくる、大きな手には何か呪詛の力が有るんだろうか。私はいつも落ち着く。全てから解放されるような気分になる。「ほら、もう落ち着いただろ?平気?気分悪くない?」うん大丈夫、っていいながら『蘇我』という言葉に何か詰まるものを感じる。それは私が蘇我を嫌っているからだろうか。「太子…」ちいさく呟いたら太子は笑いながらこっちを見てくれた。「わたしは蘇我の子だよね?」ぽつりぽつり。雨音のように小さな声で。でも太子は一語一語逃さないように聞いてくれている。「私なんかじゃなくてもっと、やる気があって、有能な人が蘇我に生まれれば良かったんだ…。」わたしみたいな、人間として生きることを望まなかった『物』がこんな権力者の家に生まれなくても良い筈なのに。神とはなんて人間の選別が下手なのだろうか。それとも、私だけ例外なんだろうか。苦いアレはもうおさまったけれど今度は目から止めどなく涙が溢れてきた、今度はこっちを押さえなければならない。忙しいな。…水だってまともに飲んでいないのにどうして涙なんかが出てくるのだろうか。その間太子は小首を傾げて腕を組んで唸っている。そして何かひらめいたようにパッと顔を明るくして「、私はが馬子さんの娘で良かったと思うよ。」いたずらっ子みたいな顔をして笑う。何を考えているんだこの皇太子は。渋い顔で見ていたらクスクス笑って「だって今後が私の所に嫁いでくるかも知れないでしょ?それって素敵じゃん24時間イチャコラし放題!!」ごわっと手を三つ又ブイ字にして言ってからなんだか力が抜けた。万が一太子の所に嫁いだとしても私じゃ世継ぎはもう産めないだろう。若すぎて権力争いにも入れない様な子どもは生みたくない。蘇我の血を濃くするだけだ。「お断りしますよ太子。私じゃ無理ですから。」取り合えず笑ったら太子もまた笑ってくれた。うんうんと頷いて「そりゃあな〜…そう言うの決めるのはと馬子さんだしな!私は口挟まないよ。」そういう優しい心使いが嬉しくてまた涙が出てきた。いい加減止まってくれないかな。



「太子!!お水と布巾貰ってきました!!」



バタバタバタッ!と廊下を走って簾を突き破って入ってくる。よく水こぼれなかったね、と感心している太子と涙がほろほろ出てる私を見比べて小野殿がポカンとしていたがハッと自我に返って左足に力を入れた(ように見えた。何せ薄暗い)そして右足が太子の額に…ぇ?なんか太子の位はもしかして下がったのかそれとも私が夢を見ているのか、神童とよばれていた(らしい)厩戸皇子もとい聖徳太子様が大礼(仮。もしかしたら小礼かもしれない)ひとに蹴りを食らったら私みたいな人間は唖然とするのが普通だろう。「このアワビ!!なに様泣かせてるんだよ馬子さんに言いつけるぞ!!」いいながらゲシゲシ太子の背中を蹴り続けている。それは止めてよ殺されちゃうよ暗殺されたくないよー!!泣きながら小野殿に訴えている…面白い。



様大丈夫ですか?廃棄物はちゃんと指定の所に出しますから安心して下さい。」
「え、いや大丈夫ですから、太子可哀想ですよ…?」
「気にしないで下さいアレはゴミであって聖徳太子ではありません。」
「…そうですか…?」



あ、お水持ってきたんだった。といって器に入っている水を私に渡す。飲みたくない。どうぞ、といわんばかりの小野殿の顔に私は困惑していた受け取って飲まないのは失礼だし受け取らないのもまた失礼だ。眉間にしわを寄せて今度は私がうむむと唸る。もぞっと布がこすれる音がして太子が起きあがる。「、妹子を連れてきた訳を話そう。」忘れてたよ、と後ろ頭を掻く。ヨーロレッイヒーと唄いながら私の横に座って口を開いた。



「明日からのご飯を持ってくる係りに任命しました小野妹子君でーっす!!」
「何ですかそれー!!いきなり『馬子さんの娘に会いに行くぞ!』とか張り切って公務でもしてくれると思ったらそれですか!??」
「太子?太子もう此処には来ないの?ねぇどうして!!?」
「うるへー!!私は決めたんだ馬子さんにそろそろ仕事しないと命に関わるよっていわれちゃったんだ!!まだ死にたくないよ!!!」
「父上が!?酷い何考えてるのあの人!でも太子仕事してないのはおかしい!」
「なるほど…じゃあ僕がご飯を運べば良いんですね様のために。そうすれば太子も仕事をする、倭国は安泰、一石二鳥ですか…。」
「ということで頼んだぞ妹子!私は今から馬子さんの所に行って仕事してくるウゲェエエ!!」
「ナチュラルに嫌がっちゃ駄目だよ太子!!」



バタバタっと入ってきた舎人(もう引退した人かなそれとも兄上の蝦夷の舎人だろうか)に半ば引きずるように連れて行かれた太子がいなくなって私と小野殿の間には静寂が流れた。閉め切った窓から光が少しずつ入り込んでいる。改めてみる小野殿は仕事人だった。手は筆を握った後が目立って中指の辺りにタコができている。「様…あの改めて挨拶させていただきます。小野妹子です。官位は五位の大礼です。」あ、こちらこそ、という意味合いを込めて軽く会釈する。きれいな人だ、徐々に明るくなる部屋を見つめて私はぼうっと考えた。「それで様、朝食の方はまだですよね?お持ちしましょうか。」すっと立ち上がって出ていった小野殿。引き留めるタイミングを誤ってしまった。どうしよう食べたくないんだけど…。持ってこられたらどうしようもなくなる。でも食べたらきっと戻してしまう。悪循環を最初に見るのは何処か苦しいものが有るんじゃないかと思って頭を抱えてしまった。そうこうとすると小野殿が右手に粥の入った器を手に簾を潜った。「様、どうぞ。」そうしてまだ暖かい粥を私の膝の上に載せる。暖かい。この暖かさは大好きだ。白い粥に木の実がいくつか浮かんでいる。コレは何の木の実だったのかこの前太子に教えて貰ったばかりなのに…。
一向に粥に手をつけない私を見て小野殿が不思議そうな顔をしてこちらを覗いている。



様?召し上がらないのですか?」
「私、朝は食べないんです。」
「そうですか、じゃあ昼にでも。またもってまいります。」
「昼も食べません。」
「それでは夕刻ですか?一日二色は食べないと…」
「すみません夕刻もいただきません。」
「…いつ食べるんですか?」
「食べたくないので今日はもうお引き取り下さい。」



すっと頭を下げて促す。実際食べたくもないし飲みたくもなかった。膝の上にある粥の入った器を小野殿の前にコトリと置いた。すると小野殿が箸を持って粥を掬った。箸の持ち方も幼少の頃から躾られているのか無理が無くきれいな形をしている。「一口でも良いんです食べて下さい。」すこし悲しそうな目をしている。何かを訴えたいような、それとも食べないということが彼にとっては哀れむ対象なのかも知れない。「その粥はだれか仕事を頑張っている人にあげて下さい。私のようなものが食べるよりは何倍も役に立つはずです。水も飲みたく有りません。木の実も野菜も塩も獣肉もなにも口にしたくないので何を持ってきても駄目です小野殿。」なにか悔しそうな顔をしてコトと箸を器の上に置く。少し考えた後に彼は私にこういった。「僕は摂政、聖徳太子様から貴女様のお食事を運ぶ係りを任命されました。それに反すると僕は国で一番偉い推古大王から罰を与えられます。ですが、今日は、貴方の言い分を聞き入れましょう。」ふわとまた笑った。この笑顔には何か力があると思ったけれど其れがどんな力なのかははっきり解らなかった。太子がいた場所に座っている「様、僕のことは妹子と気安く呼んで下さい。」太子と違うのは体裁を崩さず正座をしているところだ。「僕に色々と貴方のことを教えていただけませんか?新しい仕事場です、上司のことを知ることも仕事の内ですから。」……この人は仕事上手だ。口達者とかまた違う、口先が巧い…これも違う。なんだか全てを上手に丸め込む力があるようだ。その日は結局食べなくてもすんだけれど部屋が真っ暗になるまで話し込んだ。

帰り際に「明日からもよろしくお願いしますね。」と微笑みながら言われてしまってなにか体温が上昇する気がした。気のせいだと思ったけれど風邪だったら大変なことになるから大人しく布団に横になった。いつもガヤガヤと五月蝿い廊下だけれど今は小野殿の足音しかしない。少しずつ小さくなるような、けれど大きくなるような不思議な気持ちになった。他の誰の足音もしない。はずなのに…。真横で聞こえたり遠くで聞こえたり
がいつまでも聞こえて、眠れなかった。もうとっくの昔に小野殿は自分の屋形に帰っているはずなのに。